こぶ観音について

子生[こぶ]観音

平安時代の末、刀剣を業とする重兵衛夫婦には子供がありませんでしたが、
観音様に熱心に祈願したところ男児を授かり、重次郎と名づけました。
たまたま出会った旅の僧が重次郎を見て、「この子は観音様の申し子だから、
これを守り本尊にして大事に育てるように。」と言って、重次郎に観音像を授けました。
長じて重次郎18才の時、源義経の軍に従い、功を立てて「義清」という名を賜わりました。

しかし、戦に疲れ無常を観じた義清は、刀を捨て、観音像を背負って諸国行脚に出かけました。

そして、上州石打の地に至り、「ここは霊地である。」と感じて庵を結び、読経三昧に入りました。これが当山の始まりです。

そして、当山を開創された方が観音様の申し子であったことから、 子宝・安産・子育てに霊験あらたかな観音様として栄え、今日に至っております。

瘤[こぶ]観音

諸説がありますが、一説には、江戸時代のこと、武州のさるお殿様の目の上に子供のころから瘤があり、

大人になってもとれないので主従ともに難渋しておりました。

このことを耳にした石打の行商人は、霊験あらたかなこぶ観音様に祈願してみてはとおすすめしました。

主従、観音様に熱心に祈願しましたところ、ある日跡形もなく治りましたので、大いに喜んで行列を整えてお礼参りに訪れたといいます。

このことから、悪いものはみな「瘤」(不要なもの)として取り除いてくださるという信仰が生まれ、今日もお参りが絶えません。

◆両野六番礼所

宝暦4年(1754年)、両野三十三観音霊場第六番札所と定められてから、人々の信仰は益々厚く、参詣者は常に絶えることがありません。なお、現在、この札所は整備されておりません。

◆上州十番礼所

平成11年(1999年)、上州三十三観音霊場第十番札所と定められ、関東一円より多くの参詣者を集めております。